:2024:04/24/12:56 ++ [PR]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
:2007:03/18/12:48 ++ 朝の過ごし方
トラックバック。
ちょっと前までは二日酔いの気だるい時間であった。
つまり、何かしたくても出来ないという時間であった。
さらに言うなら、朝とも呼べない日の高さである事が多かった。どちらかというと昼間、目覚める事が多かった。
目覚めて何をする訳でも無く、打ち上げられた海洋生物のように、鉛を流し込まれた感覚の中で溺れていた。
そう、何かしたくても出来ないんではなくて、「やろうとしない」という無益極まりない時間であった、そしてその原因を作り出しているのは俺だ、と言い換える事も出来るから、最近は有益に過ごそう、と意識している。
それはさっきの日記にも書いた「工夫」と呼べるモノであるかも知れない。とにかく、目覚めている間は俺は行動する事が出来るのだ。行動出来るのであれば、行動するべきなのだ。
それに気付く事が出来たのだから、ひょっとしたらまんざら無益という訳でも無いのかも知れない。有益さを生み出す無益さ…これはこれで面白い題材であるが、別の話になるので、別の機会に。
結果、朝とも呼べない日の高さの時刻に、最近目覚めている。
ここ一週間は、頭の上の藍から青へと変わっていくグラデーションと、それを切り裂くアラビアンナイトのような月、張り詰めた冷気と白い呼気、氷に近い雪を踏みしめる乾いた音、灯りがついている方が稀な住宅街、といった時刻を過ごしている。
異邦人にでもなった気分である。
トラック野郎と新聞配達のバイクと、コンビニが支配する世界。
犬の散歩をする方も居るには居るが、見かける事はごく稀で、見かけたとしてもすれ違うのみ。道を往く時はほとんど独りと言っていい。
そういう状況であるから、ほぼ無音なのである。声を発する機会も無い。無理矢理に機会を作る事は出来得るであろうが、それは迷惑というモノだ。
己の身体から発せられる音-それは足音であり、鼓動であり、呼吸である-が、唯一といっていい言語。己の内から、外から生み出される、己の状態を告げる言葉。
二日酔いのそれとはまったく違う言語である。俺は吐きたいのではなく、走りたいのだと告げる、言葉。
体験し得なかった時刻が感情を生み出し、体験し得なかった言語が感覚を彩る。
日が高い時には体験出来ない出来事に、満ちている。いつも見ている風景、いつも過ごしている時間とはまったく違った彩りを楽しめている。こういう時間が好きなのだという事を、俺は発見した。
つまり、
「如何に過ごしているか?」と問うならば、
「有益に過ごせている」と言うべきか。
ちょっと前までは二日酔いの気だるい時間であった。
つまり、何かしたくても出来ないという時間であった。
さらに言うなら、朝とも呼べない日の高さである事が多かった。どちらかというと昼間、目覚める事が多かった。
目覚めて何をする訳でも無く、打ち上げられた海洋生物のように、鉛を流し込まれた感覚の中で溺れていた。
そう、何かしたくても出来ないんではなくて、「やろうとしない」という無益極まりない時間であった、そしてその原因を作り出しているのは俺だ、と言い換える事も出来るから、最近は有益に過ごそう、と意識している。
それはさっきの日記にも書いた「工夫」と呼べるモノであるかも知れない。とにかく、目覚めている間は俺は行動する事が出来るのだ。行動出来るのであれば、行動するべきなのだ。
それに気付く事が出来たのだから、ひょっとしたらまんざら無益という訳でも無いのかも知れない。有益さを生み出す無益さ…これはこれで面白い題材であるが、別の話になるので、別の機会に。
結果、朝とも呼べない日の高さの時刻に、最近目覚めている。
ここ一週間は、頭の上の藍から青へと変わっていくグラデーションと、それを切り裂くアラビアンナイトのような月、張り詰めた冷気と白い呼気、氷に近い雪を踏みしめる乾いた音、灯りがついている方が稀な住宅街、といった時刻を過ごしている。
異邦人にでもなった気分である。
トラック野郎と新聞配達のバイクと、コンビニが支配する世界。
犬の散歩をする方も居るには居るが、見かける事はごく稀で、見かけたとしてもすれ違うのみ。道を往く時はほとんど独りと言っていい。
そういう状況であるから、ほぼ無音なのである。声を発する機会も無い。無理矢理に機会を作る事は出来得るであろうが、それは迷惑というモノだ。
己の身体から発せられる音-それは足音であり、鼓動であり、呼吸である-が、唯一といっていい言語。己の内から、外から生み出される、己の状態を告げる言葉。
二日酔いのそれとはまったく違う言語である。俺は吐きたいのではなく、走りたいのだと告げる、言葉。
体験し得なかった時刻が感情を生み出し、体験し得なかった言語が感覚を彩る。
日が高い時には体験出来ない出来事に、満ちている。いつも見ている風景、いつも過ごしている時間とはまったく違った彩りを楽しめている。こういう時間が好きなのだという事を、俺は発見した。
つまり、
「如何に過ごしているか?」と問うならば、
「有益に過ごせている」と言うべきか。
PR
- +TRACKBACK URL+