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蛇の舌先

「空っぽの要塞へようこそ」
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:2007:02/22/00:43  ++  思索

 惰性で生きない、
 言った事はやる、
 こう目標を掲げてそろそろ3ヶ月。感じた事は「書く事、言える事が減ってきた」という事。
 何故なら、言った事=実現した事に等しいから。

 もう一回、この二つについて、朝ぼんやりしながらとか、電車に揺られながらとか、車走らせながら考えてみた。
 そもそもなんでこう思ったのだっけなあ、と。
 それは去年までの言動、行動を振り返るという事を意味した。

 正直、“振り返る”というのが精一杯だった、というのが感想。
 墓穴に自ら両足を突っ込むような皮膚感覚、背筋に走る怖気と何か。
 
 それはとても、おぞましい事だった。
 それはとても、恥ずべき事だった。
 それでも、
 その中から何かを、残したいと思った。
 何故なら、そこでそれに埋没し、浸り、沈んでいては何も変わらないからだ。
 だからといって、尊大になっていいというモノでも無いのだけれども。
 
 「すまない」とか、そういう事はもう言いたくない。
 そうであったのならば、そうならないようにすれば良いのだ。
 
 一つ、目標が増えた。
 “考える事を諦めない”

 明日も頑張ろう。
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:2007:02/21/00:11  ++  手札

 クソみたいなカードで勝負せざるを得ない時、
 →耐えどころである、
 →勝負どころである、
 結果、もっとクソになるか否か、その境目が面白いのだろうか。

 では“クソみたいなカード”というのはなんなのだろう。
 →偶然の結果、手にしたモノである(自分の責任外の事である)
 →必然の結果、手にしたモノである(自分の責任内の事である)
 これがわかっただけでも、判断する材料は増える=その分“クソみたいなカード”で無くなる。
 何故なら、偶然の結果であれば、逆の事だって次回以降に十分起こりうる事だし、必然の結果であれば、自らを正せば、これまた逆の事だって十分に起こりうる事だからだ。
 目の前の相手が誰であれ、自らの最善に近づける事は出来るのでは無いだろうか。
 
 大事なのは、チップには限りがある事。
 釣り上げても釣り下げても降りても構わない、が、チップは有限であり、しかも場を文字通り左右する。色々な意味で。
 そこで、最初の選択肢が意味を持つわけだ。

 考えるという事を放棄しちゃ駄目なんだろうなあ。
 カードに名前をつけてやろうと思ったけれども、うまくまとまらないので今日はここまで考えたぞ!と、残しておく事にした。

 追記:
 勝負する相手は、カードでも指先でもイカサマでも場に詰まれたチップでも己の不幸でもない。
 目の前に聳え立つクソ野郎だ。
 それが誰であり、何であるかは人によるが、そいつの手札を見る余裕があれば、尊敬出来る奴かも知れない。

:2007:02/19/23:19  ++  生存

 今になって思い返すのは“悔しい”という事だった。

 例えば、腹が減って立ち寄ったコンビニで何か食事を済ませるという事であったり、
 例えば、パッケージされて商品になった食品をほおばるという事であったり、
 例えば、シャワーがあって布団があってぬくもりに包まれるという事であったり、
 そういう「何か」に依存しなくてはならないという状態が、悔しかった。
 依存しなくては生きてはいけないのか、と。

 「そうだ」
 と答える事は正常であり、なんら後ろめたさを感じる事では無いのだろう。
 いや、むしろ感謝すべき事なのかも知れない。そうあれる、という事に対して。対価があって価値を手にするという事に対して。
 そのプロセスが容易に手に入り、そのプロセスに容易に使われるという事に対して。
 
 「消費者と呼ばれる存在になるまでは、取るに足らない存在だと見なされるという事だ」
 と言った男は、
 「闘え、闘え、闘うんだ」
 とも叫んだ。
 全ては、生きていればこそ。

 つまり何が言いたいか、ではなくて、
 何をやりたいか・やるかに尽きるのだろう。

 明日も頑張ろう。

:2007:02/19/00:05  ++  旋律

 そうまでして奏でる情熱というのは一体なんなのだろう。

 それを始めて知ったのは、ブラックジャックの同名のタイトルの回だったように思う。
 ストラディバリウス奏者とブラックジャックが一緒の飛行機に乗った→南極(だか北極)に墜落して、ストラディバリウスを失った→奏者、指が凍傷で壊死。設備が足りず切断せざるを得なかった→救助された後、遭難者(ブラックジャック一行)を保護していたエスキモー、ストラディバリウスを発見。切断した指と一緒に埋める。確かこんな話。
 “この世に二つとない名器なのだなぁ”と漠然と思っていた。別にヴァイオリンは好きではないのだけれども、ブランドとして理解した。
 そしてそれ以上に、ブラックジャックが無力感に打ちひしがれる回として記憶に残っていたのだけれども。

 朝のNHK特集で、8年間ストラディバリウスの“復元”に腐心している職人の話を、コーヒーをすすりながらなんとなく観ていた。
 20分の1ミリ単位でストラディバリウスの寸法を測り、CGで図面を起こしてから、もっとも適した木材で削り出す、とそのプロセスを追っていく段階で、なんとなくでは無くなった。
 
 復元の工程でわかった事は、“カーヴ、ふくらみが非常に細かい”という事だった。
 通常のヴァイオリンに割かれる以上に、繊細さが求められたのであろう。20分の1ミリ単位で測らなければ復元出来ぬ程に。
 なんだかここまで来ると、“木を削りだして形にした”というよりも、“音が望んだ姿通りに削り出した”と表現した方が近いのかも知れない。
 
 そして、実際にストラディヴァリウスを所有している奏者(名前失念)に手渡して比較。
 結果は“錯覚を覚える”というモノ。“音色はそっくり”なのだそうだ。
 その先に“ただ…”がついてしまう、とりあえずの結論。

 「倍音が足りない」
 それが奏者の指摘だった。
 「音の透明感が違うんです、倍音が足りないから音の厚みも違うんです」との事。
 8年分の情熱を持ってしても、未だに届かない情熱。
 奏者が手にしていたストラディバリウスが、円熟期のモノであったという事を差し引いて尚、届かない音。
 近づけた事を誇るべきか、未だ遠い事を嘆くべきか。

 ブラックジャックが無力感に打ちひしがれた理由のうちの一つが、わかった気がした。
 それは得がたいモノだったのだ。

:2007:02/13/23:17  ++  触感

 地図の上から街を見るのと、地図の中の街を見るのとは同じなようでいて、随分違う。
 わかっている“つもり”には多々陥るのだけれども、それと同じ数だけ多々忘れがちでもあるという事だ。
 
 行けるはずなのにばかみたいに突っ立ってなきゃいけない事もあれば、立ち止まるべきなのにばかみたいに突っ走って行ってしまう事もある。
 それからこうあるべきものがそうでないという事も。
 それからそうであったものがこうあったという事も。

 どちらが正しい・正しくない、と、是か非かで問うとするならば、“どちらも正しい”としか言いようが無い。
 そういう問い方をされたのならば、どちらかを“選ぶ”しか解法が無いように、今の俺は思う。
 広義であるか狭義であるか、本来であればただそれだけの違いであるはずであって、そこに居る人間は数字に過ぎないだとか、その数字って実は人間の数なんだぜ!とか、この地域にはこういう名所があって~とか、この名所だからこそこの場所にあるんだぜ~とか、そういう問題では無いのだ、と。
 行くべきか、立ち止まるべきかを“選ぶ”事が問題なのだ、と。
 真実なんて言葉が本当の事だとしたら、それはその後の話なんだろう。
 数字がどうとか、中身がどうとかではなく。

 多々陥るのだけれども、同じ数だけ多々忘れがちでもある。
 どちらも有意義なモノにするか、無価値なモノにするかは“閲覧する側”だというのに。
 どちらにせよ、たったそれだけでアドバンテージになりうるのだけれども。